「本屋大賞だし、泣けるって聞いたから観たのに——なんだこれ?」
エンドロールが流れた後、俺はしばらくリモコンを置いたまま、天井を見つめていた。感動したんじゃない。モヤモヤが喉の奥につっかえていたんだ。
映画『そして、バトンは渡された』。原作は瀬尾まいこの小説で、2019年の本屋大賞受賞作。キャストは永野芽郁、田中圭、石原さとみ。数字だけ見れば間違いなく「いい映画」のはずだった。
でも、俺の心は微動だにしなかった。
それどころか、「ひどくないか、これ?」という感想すら湧いてきた。
あなたも同じじゃないか? 「そしてバトンは渡された ひどい」で検索して、この記事に辿り着いたんだろう?
安心してくれ。その感覚は、まったく間違っていない。
この記事では、「ひどい」と言われる理由を5つの角度から徹底的に解剖する。実話なのかどうかの疑問もスッキリ解消する。そして最後に、「それでもこの映画に感動した人がいる理由」まで、フェアに掘り下げる。
読み終わった後、あなたのモヤモヤには名前がついているはずだ。
結論から言う——「ひどい」と感じたあなたの感覚は、正しい

本屋大賞受賞作なのに「ひどい」と言われる異常事態
まず数字の話からしよう。
映画『そして、バトンは渡された』は、Filmarksで10万件を超えるレビューが集まり、平均スコアは3.9/5.0。悪くない数字だ。というか、かなり高い。
原作は2019年の本屋大賞を受賞している。書店員が「一番売りたい本」に選んだ作品だ。キャストには永野芽郁、田中圭、石原さとみという豪華な面々。興行的にも成功している。
——なのに、「そしてバトンは渡された ひどい」で検索する人が後を絶たない。
これ、異常事態だと思わないか?
「ひどい」で検索されている時点で、この映画が一定数の人の心に引っかかりを残しているのは間違いない。感動した人は「泣けた」で検索なんてしない。わざわざ「ひどい」で検索するのは、消化しきれないモヤモヤを抱えたまま答えを探している人だ。
あなたがまさに、それだ。

本屋大賞ってめっちゃ面白い本のランキングでしょ? それなのに「ひどい」って言われるの、なんか矛盾してない?

矛盾じゃない。「多くの人に刺さる作品」と「全員が納得する作品」は別物だ。ここから、モヤモヤの正体を全部出す。最後まで付き合ってくれ。
『そして、バトンは渡された』は実話?——原作との関係を整理する

結論:実話ではない。モデルとなった人物も存在しない
先に結論を言う。
『そして、バトンは渡された』は実話ではない。モデルとなった実在の人物も存在しない。
原作は瀬尾まいこの小説で、2018年2月に文藝春秋から出版された完全なフィクションだ。2019年に本屋大賞を受賞し、2021年に映画化された。
瀬尾まいこは元中学校の国語教師で、生徒たちとの関わりの中から作品の着想を得ることが多いと公言している。『そして、バトンは渡された』も、「血のつながりがなくても家族になれる」というテーマを小説として描いたものであり、特定の実話や事件がベースになっているわけではない。
「実話なの?」と検索する人が多いのは、それだけこの物語の設定が現実にありそうに感じられる証拠でもある。親が何度も変わりながら育つ子ども、ステップファミリー、複雑な家庭環境——これ自体は現代社会に珍しくない話だからな。
「実話っぽい」と感じさせる作品の巧みさ

実話だと思ってしまう人がいるのは、作品の力でもある。
血のつながらない親に育てられるという設定は、里親制度やステップファミリーの存在を知っている人ほど「これ、現実にもあるよな」と感じる。優子が明るく前向きに育っている姿も、一見リアルに見える。
だが、ここにトラップがある。
設定がリアルだからこそ、展開がリアルじゃない部分が余計に引っかかるんだ。
「実話っぽい設定」と「ファンタジーみたいな展開」のギャップ——これが「ひどい」と感じる人のモヤモヤの入り口だ。実話だと思って観ていると、「いや、現実にはこうはならないだろ」という引っかかりが次々と出てくる。
でもフィクションだとわかっていれば、「そういう物語なんだ」と受け入れる余地が生まれる。だからこそ、最初に「実話ではない」を明確にすることが大事なんだ。この前提を共有した上で、次に進もう。
映画『そして、バトンは渡された』がひどいと言われる5つの理由

ここからが本題だ。「ひどい」と言われる理由を、5つの角度から解剖する。
あらかじめ言っておくが、俺はこの映画を「ダメな作品」だと切り捨てるつもりはない。ただ、「ひどいと感じた人の違和感には全部理由がある」ということを、ひとつずつ丁寧に言語化したい。
① ご都合主義すぎる展開

最も多い批判がこれだ。
主人公の優子は、実の母を亡くし、父親が再婚し、その相手(梨花)に育てられ、梨花が別の男と結婚してまた親が変わり……と、親が何度も入れ替わるという壮絶な環境で育つ。
普通に考えてほしい。親が何度も変わる子どもが、あんなに明るく真っすぐに育つか?
もちろん、現実にも逆境を乗り越えて前向きに生きている人はたくさんいる。それは否定しない。だが映画の優子は、環境の変化に対してほとんど心の傷を見せない。不安も、怒りも、反抗期的な荒れも、ほぼ描かれない。
これが「ご都合主義」と言われる理由だ。感動のゴールに向かって、都合よく整えられたキャラクターに見えてしまう。物語の着地点が先にあって、そこに辿り着くために主人公の感情がコントロールされている——その不自然さに気づいた人が「ひどい」と感じるんだ。

確かに、あれだけ環境が変わったらもっと不安定になりそうですよね……。優子が全然荒れないのが逆に不自然に見えました。

そう。感情のリアリティが足りないと、どんなに泣けるシーンを用意されても心が動かない。「ここで泣くべきなんだろうな」と冷静に構えてしまうんだ。
実際に、映画.comのレビューにはこんな声がある。
「石原さとみ演じる梨花が無責任すぎる。病気とはいえ見ず知らずの男性に子育てを押し付けるのはご都合主義。父親もたまたまみんないい人という展開に現実味がない。今年ワースト映画」
映画.com 観客レビューより
この気持ちは痛いほどわかる。確かに、冷静に考えればツッコミどころは山ほどある。でもこれは「リアルじゃない」ことが問題なんじゃない。リアルっぽく見せておいて、肝心なところだけリアルじゃない——その落差が引っかかるんだ。
② 親たちの無責任さが美化されている

これも根深い批判だ。
映画を客観的に見ると、優子は大人たちの都合でたらい回しにされている。実の父は再婚して新しい家庭を作り、梨花は男が変わるたびに優子を連れていく。血のつながった父親すら、最終的には優子を手放している。
「でも、それぞれが優子を愛していたんだ」——映画はそう描こうとする。
だが、ちょっと待ってくれ。
愛しているなら、なぜ安定した環境を与えなかったのか?
子どもにとって必要なのは、目まぐるしく変わる「愛の形」じゃなく、「ここにいていいんだ」と安心できる居場所だろう。少なくとも、現実ではそうだ。
親の身勝手な行動を「愛」というラッピングで包んで美しく見せる構図。これに拒否反応を示す人は少なくない。特に、自分自身が複雑な家庭環境で育った人ほど、「こんな綺麗事じゃないんだよ」と感じるはずだ。
俺自身も思った。「子どもの気持ちが抜け落ちてないか、この映画?」と。親の「愛していたつもり」を描くことに集中するあまり、優子の内面が空洞化している。そこが「ひどい」の二つ目の正体だ。
③ 原作からの大幅な改変(映画版)

原作ファンにとって、この映画は地雷原だった。
映画版の最大の改変は、梨花が病気で死ぬという設定だ。原作では梨花は生きていて、物語のラストで優子と再会する。この再会シーンは原作読者にとって最も感動的な場面のひとつだ。
映画はそれを削った。代わりに、梨花が優子と再会する前に亡くなるという設定に変更した。
- 梨花の生死:原作=生存して再会 → 映画=病気で死亡
- 「みぃたん」の存在:原作=存在しない → 映画=幼少期の優子の愛称として追加
- 呼び方:原作=終始「梨花さん」 → 映画=「ママ」と呼ぶ場面あり
- 物語の構造:原作=温かく穏やかな再会で着地 → 映画=死による「泣き」で着地
原作を読んだ人にとって、この改変は「原作の一番いいところを壊された」と感じて当然だ。
原作のラストは、梨花が生きていて、不完全ながらも優子との関係が続いていくことに希望がある。「家族は完璧じゃなくても続いていくんだ」というメッセージだ。
映画はそれを「梨花の死」に置き換えた。死をきっかけに感動させる——その構図に「安易だ」「原作の良さがわかっていない」という怒りが向かうのは自然な反応だろう。

え、原作だと梨花さん死なないの!? じゃあ映画のあのラストって一体何だったんだ……

そう。原作では梨花が生きていて、優子と再会するんだ。あの温かいラストを知ってから映画を観ると、「なんでわざわざ変えた?」ってなる。その理由は後で考察する。まずは「ひどい」の残りを全部出そう。
実際に、映画.comのレビューにもこんな声がある。
「原作では生きていた梨花が映画では死ぬという改変に違和感。うまく作られた映画だと思うが、それ故に気持ち悪さも際立つ。子供が産めないから子持ちと結婚して、実父から奪うという展開」
映画.com 観客レビューより
原作ファンほど映画の改変にモヤモヤする。これは事実だ。だからこそ、原作派と映画派で感想がまるで違う作品になっている。同じタイトルなのに、語っているものが別物なんだ。
④ 「泣かせ」演出が過剰に感じる

映画の後半に入ると、演出の「泣かせにかかってる感」が一気に加速する。
音楽が盛り上がり、カメラが寄り、セリフが感情をこめて語られる。画面全体が「さあ、ここで泣いてください」と言っている。
泣ける映画が悪いとは言わない。だが、「泣かせようとしている」のが透けて見えた瞬間に、心のシャッターが降りる人がいる。俺もそのタイプだ。
特にこの映画の場合、「泣ける」「号泣」という宣伝文句が先行していたこともあり、期待値を高めた状態で観ている人が多い。「泣けると聞いて観たのに泣けなかった」→「むしろ泣かせようとしてくるのが鬱陶しかった」という逆回転が起きやすい構図だ。
感動は押しつけるものじゃない。観客の心の中で自然に生まれるものだ。それを「ほらここ!ここ感動するところ!」と指示された瞬間に、感動は死ぬ。
あなたが映画を観てモヤモヤした理由のひとつは、おそらくこの「過剰な泣かせ演出」への拒否反応だろう。
⑤ 梨花の行動・動機に共感できない

5つ目は、石原さとみ演じる梨花というキャラクター自体への違和感だ。
梨花は劇中で複数の男性と結婚し、そのたびに優子を連れて家庭を渡り歩く。彼女なりに優子を愛しているのだろう、映画はそう描いている。だが、客観的に見ると「自分の恋愛を優先して子どもを振り回している女性」にも見える。
映画版では原作よりも梨花の「身勝手さ」「破天荒さ」が強調されている印象がある。石原さとみの演技が華やかな分、梨花のエキセントリックな行動がより際立つ。
そして映画のクライマックスで、梨花は病気で亡くなる。
ここで多くの人が引っかかる。「死んだから許される」という構図になっていないか?
生きている間は身勝手に振る舞い、子どもを振り回し、でも最後に死ぬことで「実は愛していた」が成立する——この「死=免罪符」の構造に、違和感を覚える人は少なくない。
原作では梨花が生きて優子と再会するから、この問題は起きない。生きたまま関係性を続けていく覚悟を見せることが、原作における梨花の「愛の証明」だった。映画はそれを「死」に置き換えたことで、かえって梨花の愛が薄く見えてしまった。
皮肉な話だが、「感動させようとして改変した」ことが、逆に「ひどい」という評価を生んでいるんだ。
それでも映画に感動した人がいる理由——作品の「仕掛け」を読み解く

ここまで「ひどい」と感じる理由を5つ出した。全部まっとうな理由だ。あなたのモヤモヤは、間違いなくこの中のどれか(あるいは全部)に当てはまっているはずだ。
だが、ここからはフェアに行く。
それでもこの映画に感動した人が大勢いる。その理由にも、ちゃんと目を向けたい。
「ひどい」と感じた側だけを肯定して終わるのは簡単だ。でもそれでは、この映画を本当には理解できない。
「血のつながりより愛のつながり」というテーマの強度

この映画が描きたかったのは、「理想の家族」じゃない。「不完全な人間たちの、不完全な愛」だ。
完璧な親なんていない。梨花は身勝手だし、森宮さんは不器用だし、実の父親も最終的には優子を手放している。誰ひとり、「正解」の子育てをしていない。
でも、それぞれが自分のやり方で優子を愛していた。その「やり方」がズレていたとしても、「愛していた」という事実は消えない——映画はそこを描こうとしている。
この切り口は、ステップファミリーや複雑な家庭環境で育った人の心に深く刺さる。
「血がつながっていなくても、自分を大切に思ってくれた人がいた」「完璧じゃなかったけど、あれも愛だったのかもしれない」——そういう経験を持つ人にとって、この映画は自分の過去を肯定してくれる物語になる。
「ご都合主義だ」と感じる人にとっては弱点になる部分が、別の誰かにとっては救いになる。同じ映画が、見る人の経験や価値観によってまったく違うものになる。これは作品の欠陥じゃない。作品が「鏡」として機能している証拠だ。
実際に、感動したという観客の声を見てみよう。
「後半の怒涛の伏線回収に涙が止まらなかった。2つの家族の話がどのように交わるかドキドキしていたら、あっと驚く展開。最初から観返したくなった」
映画.com 観客レビューより
「血が繋がっていないなんてちっぽけに思える。沢山の愛情と温かさが溢れた素敵な映画。普段から家族に感謝していたが、改めて当たり前と思ってはいけないと考えさせられた」
ワーナーブラザーズ公式サイト 観客レビューより
「出演者に色々あったので集中できるか不安だったが、娘を持つ母として最後は泣かされてしまった。感情や出来事を美化しすぎているとは思いながらも、良い映画だった」
Filmarks 観客レビューより
「ひどい」で検索して読んでいるあなたには意外かもしれない。でも、これが現実だ。Filmarksでは10万件超のレビューで平均3.9点。全体で見れば、感動した人のほうが多い。「ひどい」と感じる層は少数派——だが、その少数派の感覚が間違っているわけじゃない。むしろ、作品の構造的な弱点を正確に見抜いているからこそ「ひどい」と感じるんだ。
永野芽郁と田中圭の演技が支えた部分

脚本に文句をつける人でも、キャストの演技を否定する声は少ない。
特に田中圭が演じた「森宮さん」は、多くの観客の心を掴んだ。不器用で、言葉は足りないけど、朝ごはんを毎日作り続けるあの姿。「愛してる」と言わないのに、行動の全てが愛そのものになっている。
永野芽郁の明るさも、この映画を支えている。暗くなりがちな題材を、彼女の持つ天性の明るさが中和している。「親が何度変わっても前を向ける主人公」というある種のファンタジーを、彼女の存在感が説得力に変えている部分はあるだろう。
脚本の弱さを、役者の力がカバーしている——これはこの映画の正直な評価だと思う。
映画を「ひどい」と感じた人も、森宮さんのシーンだけは心が動いたのではないか? あの不器用な優しさだけは、脚本のご都合主義とは別の次元で胸に響くものがある。
映画がわざわざ原作を変えた理由を考える

ここからは俺の考察になる。
なぜ映画は、原作のラストをわざわざ改変したのか? 梨花を殺す必要があったのか?
俺なりの答えはこうだ。
原作の良さは「穏やかで温かい読後感」にある。だが、それをそのまま2時間の映画にすると、「淡々とした良い話」で終わるリスクがある。小説の繊細な筆致が映像化で失われた場合、物語のドライブ力が足りなくなる。
映画は集団で観る。暗い劇場で、大画面で、2時間拘束される。その中で感情のピークを作るためには、原作以上にドラマチックな仕掛けが要る——制作側はそう判断したのだろう。
梨花の死を入れることで、「限りある時間の中で注がれた愛」という軸が追加される。「もう会えない人が、自分のためにしてくれたこと」のほうが、感情的なインパクトは大きい。映画はそのインパクトを狙った。
結果として、ハマった人には号泣映画になり、ハマらなかった人には「泣かせに来てる安易な映画」になった。
改変が正解だったかどうかは、正直わからない。ただ、「意味もなく変えた」わけではないということは言える。映画には映画の事情があり、映画としての勝負をかけた結果の改変だったんだ。

つまり、映画は映画として別の物語を作ろうとしたってことですか? 原作のコピーじゃなく。

そういうことだ。それが裏目に出た人には「ひどい」に見えるし、ハマった人には「泣けた」になる。同じ映画を観ても感想が真っ二つに割れるのは、この構造的な理由があるんだ。
よくある質問
- Q『そして、バトンは渡された』は実話ですか?
- A
実話ではありません。原作は瀬尾まいこによるフィクション小説(2018年出版、2019年本屋大賞受賞)です。モデルとなった実在の人物や事件も存在しません。ただし、ステップファミリーや里親といった現実にもある家族の形をテーマにしているため、「実話っぽい」と感じる方が多いです。
- Q原作と映画の一番大きな違いは何ですか?
- A
最大の違いは梨花の生死です。原作では梨花は生きていて、物語のラストで優子と再会します。映画版では梨花が病気で亡くなる設定に変更されており、この改変が賛否両論の最大の原因になっています。他にも「みぃたん」の追加、呼び方の変更など複数の改変があります。
- Q結局、映画は観る価値がありますか?
- A
あります。ただし「感動作」として期待値を上げすぎずに観ることをおすすめします。「ひどい」と感じる人の気持ちも「感動した」人の気持ちもどちらも正しい映画です。田中圭の森宮さんの演技だけでも観る価値はありますし、賛否が分かれる映画だからこそ「自分はどう感じるか」を確かめる体験に意味があります。
- Q映画『そして、バトンは渡された』はどこで観られますか?
- A
映画・ドラマ・アニメを幅広く観るならU-NEXTが便利です。31日間の無料トライアルがあるので、まずは試してみて損はありません。配信状況は時期によって変わるため、最新情報は各サービスで確認してください。
- Q原作と映画、どちらを先に楽しむべきですか?
- A
映画を先に観るなら、「原作とは別の作品」として期待値をニュートラルにして観ることを勧めます。原作を先に読むなら、映画を観た時に改変部分でモヤモヤする覚悟をしておいてください。個人的には、映画をフラットに観た後に原作を読むのが一番楽しめると思います。原作の梨花が生きているラストを読んだ時に「こっちのほうがいい」と感じるか「映画のほうが響いた」と感じるか——それ自体が面白い体験になります。
まとめ——ひどいと感じた人も、感動した人も、どちらも正しい
最後にもう一度、まとめよう。
映画『そして、バトンは渡された』が「ひどい」と言われる理由は5つあった。
- ① ご都合主義すぎる展開——主人公の感情がリアルに描かれていない
- ② 親の無責任さが美化されている——子どもの視点が抜け落ちている
- ③ 原作からの大幅な改変——梨花の死・みぃたんの追加で原作の良さが損なわれた
- ④ 泣かせ演出が過剰——押しつけがましい感動に拒否反応が出る
- ⑤ 梨花に共感できない——死が免罪符になっている構造への違和感
全部、まっとうな理由だ。あなたのモヤモヤは正しかった。
だが同時に、この映画に感動した人の気持ちにも理由がある。
「血のつながりがなくても家族になれる」というメッセージに救われた人がいる。田中圭の森宮さんの不器用な愛情に涙した人がいる。不完全な親たちの、それでも確かにあった愛に、自分の過去を重ねた人がいる。
作品は鏡だ。何に怒り、何に泣くかで、その人の価値観が見える。
「ひどい」と感じたあなたは、おそらく物語に対してフェアな目を持っている人だ。ご都合主義を許さず、人物の感情にリアリティを求め、安易な泣かせ演出に心を閉ざせる人だ。それは映画の欠点を正確に見抜く、まっとうな感性だ。
「感動した」という人は、物語の不完全さを受け入れた上で、そこに描かれた愛に自分の経験を重ねた人だ。それもまた、まっとうな感性だ。
どちらも正しい。この映画は、そういう映画なんだ。
もしまだ映画を観ていないなら、「感動作」というフィルターを外して、フラットな目で観てみてくれ。U-NEXTなら31日間の無料トライアルで今すぐ観られる。
もし一度観て「ひどい」と感じたなら、この記事の考察を頭に入れて、もう一回だけ観てみてほしい。特に森宮さんのシーンを中心に。違う景色が見えるかもしれない。
そして、原作も読んでみてくれ。梨花が生きているラストを読んだ時に、あなたの中でこの物語の評価がもう一度揺れるはずだ。

ひどいと思ったなら、それがあなたの答えだ。でも、もう一度だけ観てみてくれ。作品は鏡だ——2回目の自分は、1回目とは違う人間かもしれないからな。

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