こち亀の最終回はひどくない。両さんっぽい最終回だったと俺は思っている。
「ひどい」と言われる最大の理由は、40年の連載に対して「企画回」で終わったことへの落胆だろう。だがそれは「いつものこち亀」を最後まで貫いた証拠でもある。
歳をとって両津勘吉の年齢を超えた今、再度こち亀を観ると、両さんの真っ直ぐさが羨ましい。年齢とともに見栄っぱりになってしまった俺に、両さんは「そんなのお構いなし」と笑って見せる。
こち亀の最終回がひどいと言われる理由|6つの批判を正直に整理する
こち亀の最終回が「ひどい」と言われる原因は、40年間の連載への期待とギャグ路線のギャップにある。
2016年9月、週刊少年ジャンプ42号に掲載された最終話「40周年だよ全員集合の巻」。こち亀は1976年から40年間、一度も休載せずに連載を続けた。全200巻、累計発行部数1億5,000万部超。国民的漫画の最後を飾る1話に、読者は相応の「大団円」を期待していた。だが実際に描かれたのは「復活希望キャラベスト10」という企画回だった。
ネット上に散見される批判を整理すると、大きく6つに分類できる。
1つ目は「40年の連載が企画回で終わったこと」への落胆だ。
読者の多くは、両さんの人生に何らかの決着がつく最終回を期待していた。だが秋本治が選んだのは、読者投票で復活キャラを決めるという、いつものこち亀らしい「お祭り回」だった。長期連載の最終回としては異例の構成であり、拍子抜けした読者が少なくなかった。
2つ目は「両さんのイタズラで終わるオチ」への不満だ。
ジャンプ版では、両さんが本庁への栄転を告げて仲間との別れを演出するが、実はすべて嘘だったというオチで大団円を迎える。40年間読み続けた読者にとって、最後のオチが「イタズラでした」では軽すぎると感じた声があった。
3つ目は「コミックス版200巻のオチが品がない」という批判だ。
コミックス版では、大原部長が両さん抜きで豪華祝賀パーティーを画策するが、両さんにバレてしまい、料理全部に唾をつけて独り占めするという展開になる。中川の「200巻の最終巻なのにすごいオチだ…」というセリフが、読者の気持ちを代弁していた。
4つ目は「感動が足りない」という声だ。
同じジャンプの長期連載作品には、キャラクターの成長や別れを丁寧に描いた最終回が多い。こち亀の最終回には涙を誘う展開がなく、「40年分の感動を返してほしい」という感情的な反応が生まれた。
5つ目は「麗子との恋愛に決着がつかなかった」ことだ。
両津勘吉と秋本麗子の関係は40年間ずっと曖昧なままだった。結婚や告白といったラブコメ的な決着を望んだ読者にとって、何も変わらないまま終わった最終回は消化不良だった。
6つ目は「両さんに成長や変化が描かれなかった」ことだ。
40年間、両津勘吉は破天荒で自由奔放なまま最終回を迎えた。読者が年齢を重ねて変化していく中で、両さんだけが変わらなかった。
こち亀の最終回がひどいのではない——40年間ブレなかった両さんに、俺たちが感動を求めすぎた結果だ。
だが、ここで立ち止まって考えてほしい。こち亀は1話完結のギャグ漫画だ。40年間ずっと「いつものこち亀」を描き続けた作品が、最後だけ「いつもと違うこち亀」で終わる方が不自然ではないか。「ひどい」と感じた感情は正直なものだと思う。だが「ひどい」の正体は「こち亀への期待」であり、「こち亀への愛」でもある。

40年間読み続けた読者ほど「ひどい」と感じやすいのは、それだけ両さんに思い入れがあった証拠だね。
ジャンプ版とコミックス版の最終回の違い|2つのオチを徹底比較
こち亀の最終回はジャンプ版とコミックス版でオチが異なり、読後感がまったく違う仕上がりになっている。
ジャンプとコミックスで最終回が違うことを知らない読者も多い。どちらも「復活希望キャラベスト10」という企画回がベースだが、投票結果の1位が異なり、オチの方向性も変わっている。2つの最終回を並べて読むと、秋本治がこち亀という作品に込めた思いが見えてくる。
ジャンプ版のオチ(2016年9月・42号)
ジャンプ42号に掲載された最終話「40周年だよ全員集合の巻」では、復活希望キャラベスト10の1位に星逃田(ほしにげた)が選ばれた。星逃田はハードボイルド刑事を自称する個性派キャラで、読者人気の高いサブキャラクターだ。
企画回の裏で、両さんは突然「本庁への栄転が決まった」と宣言する。亀有公園前派出所の仲間たちは驚き、大原部長も中川も麗子も別れを惜しむ。40年間一緒に過ごした派出所を去るという展開に、読者も「ついにこの日が来たのか」と息を呑んだはずだ。
だが、栄転は嘘だった。すべて両さんのイタズラだ。仲間たちが感動して涙を流した直後に「嘘でした」と明かすのは、40年間変わらなかった両津勘吉そのものだ。怒る大原部長、呆れる中川、笑う麗子。最後は大勢のキャラクターが集合し、「ありがとう」の一言で40年の連載に幕が下りた。
ジャンプ版のオチは「両さんのイタズラ」——40年間こち亀を読んできた読者なら、このオチは「らしい」と笑えるはずだ。
感動を期待した読者には肩透かしだったかもしれない。だが冷静に考えると、両さんが最終回だけ真面目に感動的なスピーチをする方が「らしくない」。イタズラで終わるからこそ、40年間ブレなかったこち亀の最終回として成立している。
コミックス版(200巻)のオチ
コミックス200巻に収録された最終回では、復活希望キャラベスト10の1位が両津勘吉に変更されている。ジャンプ版では星逃田だった1位を、コミックス版で主人公に差し替えた。秋本治がコミックス版で手を加えた部分だ。
コミックス版では、大原部長が両さん抜きで豪華祝賀パーティーを計画する。40年間の連載完結を祝う華やかな宴だ。だが両さんがパーティーの存在を嗅ぎつけてしまう。ここからがこち亀だ。
両さんは料理全部に唾をつけて独り占めした。200巻の最終巻、こちら葛飾区亀有公園前派出所の最後の1ページを飾ったのは、料理を独占する両津勘吉の姿だった。中川圭一が放った「200巻の最終巻なのにすごいオチだ…」というセリフは、読者全員の心の声を代弁していた。
コミックス版のオチは「唾つけて料理独り占め」——200巻を通して一度もブレなかったこち亀の証明だ。
ジャンプ版が「仲間への感謝」で締めくくったのに対し、コミックス版は「いつものドタバタ」で締めくくった。秋本治はコミックス版のオチを差し替えることで、こち亀の最終回に2つの顔を持たせた。ジャンプ版で「ありがとう」と言い、コミックス版で「でもやっぱりこち亀はこうだろ」と笑わせる。2つの最終回を読んで初めて、こち亀の最終回は完成する。

ジャンプ版とコミックス版の両方を読んでほしい。2つのオチを知って初めて、秋本治の意図が見えてくる。
→こちら葛飾区亀有公園前派出所200巻 40周年記念特装版が無料で読めるのはこちら!(30日無料お試し)
アニメ版の最終回|漫画とは別の感動的なオリジナルエンド
アニメ版こち亀の最終回は原作とは別のオリジナル脚本で描かれ、漫画より人情味のある「感動系」の終わり方をした。
アニメ「こちら葛飾区亀有公園前派出所」は1996年から2004年までフジテレビ系で放送された。最終話は「さよなら両さん大作戦」(2004年9月放送)。原作の最終回とはまったく異なるオリジナルストーリーだ。(※アニメの話数・放送日は公式情報で確認してください)
アニメ最終回でも、両さんが本庁へ異動するというイタズラで周囲をあわてさせる展開が描かれる。ジャンプ版の最終回と似た構造だが、アニメ版は原作より12年も前に放送されている。つまり秋本治は、アニメで先に使われた「栄転イタズラ」のオチを、ジャンプ版の最終回でも採用したことになる。両さんの「らしさ」を表現する最良のオチだと、作者自身が判断したのだろう。
アニメ版が漫画版と大きく異なるのは、感情の描写だ。
漫画版がギャグに徹したのに対し、アニメ版は派出所の仲間たちとの絆や日常の大切さを丁寧に描いた。声優の演技も相まって、笑いの中に涙がにじむような最終回になっていた。
アニメ版の最終回は漫画より感動的だ——子供の頃リアタイで観て、寂しかったが両さんに励まされた気がした。
俺はアニメの最終回をリアルタイムで観た世代だ。子供ながらにとても寂しい気持ちになった。毎週日曜日に会えていた両さんに、もう会えなくなる。だが最終回の両さんは、いつも通りの両さんだった。悲しませるのではなく、笑わせて、少しだけ励ますような終わり方をしたと感じた。
1996年の「ニセ最終回」(連載1000回記念)では、両さんが警察を辞めて結婚するという衝撃展開が描かれた。だが結局は夢オチで回収された。アニメの最終回でも、漫画の最終回でも、両さんは亀有を離れない。秋本治は一貫して「両さんの日常は終わらない」というメッセージを発信し続けている。

アニメ版の最終回は配信で今でも観られる。漫画版の最終回と見比べると、同じ「イタズラオチ」でも受ける印象がまるで違うのが面白い。
こち亀の最終回で両さんは麗子と結婚した?
両津勘吉は最終回で麗子と結婚していない——こち亀はラブコメではなく1話完結のギャグ漫画だからだ。
「こち亀 最終回」と検索すると「結婚」というキーワードが頻繁に出てくる。両津勘吉と秋本麗子が最終回で結ばれたのか、気になっている読者は多い。だが答えは明確で、両さんは最終回で誰とも結婚していない。
1996年の連載1000回記念で描かれた「ニセ最終回」では、両さんが警察を辞めて結婚するという展開があった。だが後に夢オチで回収され、両さんの日常は何も変わらなかった。秋本治はインタビューで「日常が続いていく」ことを意図したと語っており、恋愛の決着をつけないのは意図的な選択だ。
こち亀は40年間、一貫して1話完結のギャグ漫画として連載された。恋愛要素はあくまでギャグの素材であり、物語の主軸ではない。両さんが麗子に惚れている描写はあっても、秋本治が恋愛で物語を動かすことは一度もなかった。
両さんが結婚しないことが「こち亀らしさ」の証明だ——あの日常は永遠に続く、というメッセージだから。
もし両さんが最終回で麗子と結婚していたら、こち亀の日常は「終わった過去」になってしまう。結婚しないからこそ、200巻を開けばいつでも「いつもの派出所」に戻れる。秋本治が描いた最終回は、こち亀の日常を永遠に保存するための選択だった。
こち亀の最終回はひどくない|両さんの年齢を超えた大人の考察
こち亀の最終回はひどくない——「いつものこち亀」を最後まで貫いた両さんに、俺たちが追いつけなくなっただけだ。
最終回を「ひどい」と感じた読者に伝えたいことがある。俺自身、最終回をリアルタイムで読んだ。だが「ひどい」どころか「両さんっぽい最終回だ」と思った。ここからは、なぜ俺がそう感じたのかを書いていく。
「ひどくない」根拠——秋本治の「有給休暇」という言葉
こち亀は40年間、1話完結のギャグ漫画として連載された。毎週毎週、両さんが騒動を起こし、大原部長に怒られ、中川と麗子が巻き込まれる。40年間ずっと繰り返されたあのリズムが、最終回だけ突然シリアスな感動回に変わっていたら、「こち亀の最終回」として成立しない。
秋本治は連載終了時にこうコメントしている。「あの不真面目でいい加減な両さんが40年間休まず勤務したので、この辺で有給休暇を与え、休ませてあげようと思います」。
秋本治が「有給休暇」と言った——40年間一度も休まなかった両さんへの、作者からの最高の賞賛だ。
40年間、一度も休載しなかった作品だ。秋本治自身も一度も休まずに描き続けた。「有給休暇」という言葉は、作者から主人公への労いであり、こち亀という作品への敬意でもある。秋本治は両津勘吉を「終わらせた」のではなく「休ませた」。だからこそ最終回は「さよなら」ではなく「またな」という空気で終わっている。
ジャンプ版の最後の「ありがとう」も、コミックス版の「料理独り占め」も、どちらも両さんらしいオチだ。感動させるのではなく、笑わせて終わる。読者を泣かせるのではなく、「また明日もこの派出所は開いている」と思わせる。秋本治が40年間守り続けた「こち亀のルール」は、最終回でも一切ブレなかった。
両さんの年齢を超えた大人の視点
両津勘吉の作中年齢は35歳前後だ。俺は今37歳。気づけば両さんの年齢を超えていた。(※両津勘吉の正確な年齢設定は原作で諸説あるため、公式情報で確認してください)
歳をとって両津勘吉を超える年齢になったが、再度こち亀を観ると両津勘吉の真っ直ぐな生き方に少し羨ましい気持ちになった。両さんは上司に忖度しない。空気を読まない。自分がやりたいことをやり、食べたいものを食べ、欲しいものに全力で手を伸ばす。35歳の警察官がそんな生き方をできるのは、漫画だからこそだ。だが、漫画だからこそ両さんの真っ直ぐさが眩しく映る。
年齢とともに見栄っぱりになってしまうことが多々あった。人前で格好をつけたり、本音を隠したり、「大人だから」と自分を押し殺したりする場面が増えた。だが両津勘吉はそんなのもお構いなしだ。俺はなんて小さい人間なんだと思わされることがある。両さんは35歳のまま40年間、一切変わらなかった。
両さんの年齢を超えた今、俺は両さんの真っ直ぐさに負けている——年齢を重ねるほど両さんの凄さが分かるのは、こち亀を読む側の俺たちが大人になったからだ。
子供の頃は両さんの破天荒さが面白かった。大人になると、両さんの生き方が羨ましくなった。そして両さんの年齢を超えた今、両さんの「変わらなさ」に圧倒される。35歳で止まった時計の中で、両さんは今日も亀有の派出所に座っている。俺たちが老いても、両さんは35歳のままだ。
最終回がひどいなら、それは「大人になった証拠」
こち亀の最終回を「ひどい」と感じたなら、感情を否定する必要はない。だが少しだけ考えてほしい。なぜ「ひどい」と思ったのか。答えは単純だ。俺たちが「感動する最終回」を求めるように成長したからだ。
子供の頃、こち亀の1話完結ギャグを読んで「感動がない」と文句を言う読者はいなかった。両さんが暴れて、部長が怒って、ドタバタで終わる。あのリズムを楽しんでいた。だが大人になった俺たちは、最終回に「物語としての着地」を求めてしまう。成長とともに俺たちの読み方が変わった。両さんは変わらない。
最終回が「ひどい」と感じるのは、俺たちが大人になった証拠であり、こち亀が日常の一部だった時代が終わった証拠でもある。だが200巻を開けば、両さんはいつだって35歳のまま待っている。

俺たちが大人になったから「ひどい」と感じるだけだ。両さんは最初から最後までずっと両さんだった。
日曜夜のこち亀は家族の記憶|ちびまる子→サザエさん→こち亀→ワンピースの日曜夜
日曜夜のこち亀は「アニメの時間」ではなく「家族の時間」だった——あの放送枠の終わりが、ひとつの時代の終わりだった。
ジャンプ黄金期と日曜夜のアニメ枠
小学校低学年の日曜夜は、ちびまる子ちゃん→サザエさん→こち亀→ワンピースの4連続だった。夕方から夜にかけて、テレビの前に座ってアニメを観る時間が毎週決まっていた。ジャンプ黄金期に幼少期を過ごした世代にとって、日曜夜のアニメ枠は「曜日のリズム」だった。
特に両さんとルフィの共演にはテンションが上がった。こち亀とワンピースという2つのジャンプ作品が同じ日曜夜に並ぶ贅沢さは、今では実現不可能だ。こち亀のアニメが終わったことで、日曜夜の4連続は崩れた。ちびまる子ちゃんとサザエさんは残ったが、こち亀の枠には別の番組が入り、日曜夜の風景は変わってしまった。
俺はこち亀を何周もしているくらい観ている。原作漫画もアニメも繰り返し観てきた。だが何度観ても飽きないのは、こち亀が「日常」を描いた作品だからだ。1話完結で、毎回リセットされて、両さんはいつだって同じ両さんだ。だからこそ何度でも観られる。
祖父の家で家族団欒でこち亀を観ていた記憶がある。こち亀にはこういった家族で過ごして観た機会が多々あった。日曜の夜、祖父母と一緒にテレビの前で笑う時間。両さんが暴れて、部長が怒鳴って、家族全員が笑う。こち亀は「ひとりで観るアニメ」ではなく「家族で観るアニメ」だった。
ちびまる子→サザエさん→こち亀→ワンピースという日曜夜の4連続は、俺たちの「日常」だった——こち亀の最終回は、日曜のルーティンの終わりでもあった。
こち亀の最終回が「ひどい」と感じる感情の奥には、日曜夜の家族の記憶が眠っている。
両さんに会えなくなった寂しさは、あの日曜夜の風景が失われた寂しさと重なっている。俺たちが「ひどい」と言っているのは、最終回の内容だけではない。こち亀がある日曜夜が終わったこと、家族でテレビを囲む時間が戻らないこと、子供だった自分がもういないこと。全部が混ざった感情だ。
だからこそ、こち亀の最終回は「ひどい」のではなく「寂しい」のだと俺は思う。そして寂しいと感じられるのは、こち亀が俺たちの人生の一部だった証拠だ。日曜夜に両さんと過ごした時間は、家族と過ごした時間でもある。両さんが亀有公園前派出所から消えた日曜夜に、俺たちは子供時代の終わりを感じたのだと思う。

日曜夜のこち亀が終わったとき、「サザエさん症候群」とはまた違う寂しさがあったよね。家族の風景が変わった瞬間だった。
よくある質問(FAQ)
まとめ|両さんは変わらない——200巻を開けばいつだって待っている
こち亀の最終回を「ひどい」と思う気持ちは否定しない。40年間読み続けた作品の最終回がギャグで終わったら、肩透かしを食らった気分になるのは当然だ。だが俺は、こち亀の最終回を「両さんっぽい最終回だった」と思っている。
秋本治は最終回でも「いつものこち亀」を描いた。ジャンプ版ではイタズラで笑わせ、コミックス版では料理を独り占めして笑わせた。40年間一度もブレなかった作品が、最終回だけブレるはずがない。秋本治は両さんを「終わらせた」のではなく、「有給休暇を与えた」だけだ。
俺は37歳になった。両津勘吉の35歳を超えた。子供の頃は両さんの破天荒さが面白くて笑っていただけだが、今は両さんの生き方が羨ましい。見栄を張らず、空気を読まず、自分に正直に生きる両さんの姿を見ると、年齢を重ねて小さくなった自分が恥ずかしくなる。
こち亀の最終回がひどいと感じたなら、それは俺たちが両さんから離れてしまった証拠かもしれない。両さんは変わらない。だが200巻を開けば、あの日曜夜の家族の記憶と一緒に、両さんはいつだって待っている。こち亀はU-NEXTでも視聴できるので、あの日曜夜の記憶とともに、U-NEXTで両さんに会いに行ってほしい(31日間無料)。


コメント